(撮影日:2010年7月15日)
梅雨のまだ明けない木曜日、
ヨーガの仲間と一緒に
気を感じるバスツアーで伊吹山へ行きました。
〜 最初に訪れたのは多賀大社 〜
ご祭神 |
伊邪那岐大神(いざなぎのおおかみ:男神さま) |
ご利益 |
延命長寿、厄除け、縁結び、家内安全、交通安全 |
みんなでご祈祷をしていただきました。
ご祈祷が終わり、建物の中を歩いていると菊石がありました。
ご祭神の伊邪那岐大神と伊邪那美大神は日本で最初のご夫婦。
ということで、境内に大きな釜がありました。
〜 2番目に訪れたのは醒ヶ井 〜
ヤマトタケルノミコトの像 |
地 蔵 川 と 梅 花 藻 (バイカモ) |
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連日の雨で川も増水ぎみ。梅花藻は咲いているのですが、この状態のままでは見にくい。 |
〜 そしていよいよ伊吹山へ 〜
この日のお天気は雨、ときどき止み間もありましたが、
伊吹山へ向かう時には雨、伊吹山ドライブウェイ走行中は霧雨で視界も悪かったです。
でも、山頂駐車場へ着いたときには、まずまずのぼれそう。
念の為、合羽や傘を持ってのぼって行きました。
【伊吹山と日本武尊】
ヤマトタケルノミコトは第12代景行天皇の皇子。
<日本書紀では日本武尊、古事記では倭建命、と表記されるそうです>
父・景行天皇の命で西を平定した後、東へ遠征。
さまざまな危機を乗り越え東征を終えた |
※参考資料 |
実際に現地へ行き、書籍などでいろいろ調べていくと、へぇ〜そうなのか!と思ったり。
ヤマトタケルをキーパーソンとして、伊吹山と醒ヶ井がつながります。
― 草薙の剣がなくても伊吹山の神をねじ伏せられる ―
そんな過信がヤマトタケルの命取りになったようです。
大和へ辿りつこうとするけれども伊勢で力尽きる。
能煩野(のぼの:三重県鈴鹿山脈付近)で動けなくなったヤマトタケルが
大和を偲んで歌ったうたは有名。(古事記に記載)
倭(やまと)は国のまほろば |
大和は最も素晴らしい国だ |
容態が急変してもなお詠み続け、
次の歌を歌い終わるとともに帰らぬ人となる。
嬢子(おとめ)の 床のべに わが置きし 剣の太刀 その太刀はや |
美夜受比売(みやずひめ)の 床のそばに 私が置いてきた剣の太刀 ああその太刀よ |
大和にいた后や御子たちが能煩野へ駆けつけ、そこに墓を作り、
近くの田の中を這い回って泣きながら葬送の歌をうたっていると
ヤマトタケルの魂が大きな千鳥となって羽ばたいていった。
その千鳥は飛び回ったすえ、河内の国の志畿に降り立った。
そこでその場所に墓を作り、白鳥(しらとり)の御陵(みささぎ)と名づけた。
その千鳥はそこからまたどこかへ飛び去ってしまった。
※参考図書…「面白いほどよくわかる古事記」より
『日本書紀』には『古事記』のヤマトタケル伝説に不可欠な父との確執は全く見られない。
熊襲・西方征伐でヤマトタケルが無事平定したときも、その手柄を讃えたという。
各地で討伐を続けたヤマトタケルが故郷の地を踏まずに息を引き取った点は、「記紀」で一致。
『日本書紀』ではヤマトタケルの死の知らせを聞いた天皇は大いに悲しみ、昼夜むせび泣いたという。
※参考図書…「地図とあらすじで読む古事記と日本書紀」より
『日本書紀』では知らせを聞いた景行天皇が伊勢で息子の陵をつくらせたところ
ヤマトタケルの霊は白鳥となって大和へ向かい、琴弾原(ことひきのはら)にとどまった。
そこにも陵をつくったが、白鳥はさらに河内に向かったので、そこにも陵をつくらせた。
※参考資料…配布資料より
ということは、『古事記』では白鳥の御陵は河内の志畿に1ヶ所。
『日本書紀』では白鳥の御陵は@伊勢、A琴弾原、B河内の3ヶ所となるようです。
伊吹山とヤマトタケルに関して、資料や家にあった本などで少し理解が深まりました。
さて現実に戻りましょう。
山を登る私たちを、伊吹山の可憐な花たちが、優しく迎えてくれました♪
アザミの花がたくさん、咲いていました。 霧雨が幻想的でした。 |
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〜 最後に訪れたのは泉神社 〜
名水百選に選ばれている泉神社のお水は御神水。
こちらのお水は、汲める場所が別にあります。 |
梅雨のお天気は気まぐれでしたが、
新鮮な息吹きを感じ、聖なるお水をいただき、実りあるツアーとなりました。
2日後の17日(土)、近畿地方は梅雨明けしたとみられる宣言が出ました。
でもピーカンよりも、気を感じるには適した日和だったって気がします。
だってみんなは善男善女ですから♪(^-^)